容子の日記・詩を平成21年6月8日〜11月4日までに掲載し終え、亡くなる少し前のことや亡くなってからのことを思い出してみようと云う気持ちになりました。
平成17年12月19日 私(正文)が京都府より「京の名工」の称号を頂き、京都ホテルオークラにて祝賀会を開く事になったのは、容子の「悔いが残らないように」との一言でした、当日はリフト付き車で行き大勢の方々にお臨席をいただき和やかに終え、容子や孫も大変喜んでいた。容子は疲れが出たのか27日肺炎のおそれあるのでリハビリセンターへ入院、18年1月12日退院。18年は何事もなく過ぎる、あえて言うと8月に太陽光発電パネルを設置したことぐらいで後は、私の仕事もあまり無いのでインターネットで囲碁を毎日のようにしていたぐらいだった。
19年2月初旬容子は足の親指先が化膿しているためリハビリセンターに入院、2月24日に呼吸困難になり京都市立病院に転院 精密検査の結果先生から「今まだ見てきたがこんなに酷い患者さん初めて」と言われ明日かもと、末期症状であることを告げられ、私は家内との別れをいつでもよいと心の中に閉じ込めました。3月中旬「これ以上治療が出来ません」と先生に言われ退院、退院後やっぱり家の方がいいといっていた、そして福永先生と相談して薬を1/3程に減らしたところ症状が少しずつ良くなっていった。

一方子供・兄弟・従兄妹・親戚の方には末期症状と説明し、危篤になってからでは意味がないので何かの理由を創って見舞いに来てほしい旨を説明、春休み中にはほとんどの方にお会いし初旬には車椅子に乗れるまでになっていた。そして4月20日待ちに待った次女(鈴木寿代)に女児(千晴)誕生、以後4月末から5月初旬にはリフト付き車で鈴木家へお見舞いや植物園に行ったりするまでに回復していった。
容子のお父さんが亡くなって9月で33回忌を迎えることになる、網田光雄兄さんの配慮で我家にて11月21日法要を勤めることになりありがたいことだ、両親が亡くなってから数度しか福井へお参りできなかったから、また今回は導師に福井県三国町の永正寺さん、米澤・網田家とご縁の深い一行寺さんや兄弟・従兄妹・孫総勢22名の出席をえて2時より勤行する。夕方まで容子との再会を喜び大いに盛り上がった。夕食は菊香荘でする(容子は留守番)。
長男の結婚の事が常に私ども夫婦で気にしていた。秋 お知り合いの方よりお見合のお話があり2度程お会いしていた。平成19年12月24日クリスマスイブに、長男がお付き合いしている山崎利恵さんを、私たちに紹介するために家に来てくれた。プレゼントの交換をし、少しお話を家内と一緒にさせて頂いた。帰られたあと良い方で正隆にはもったいない人やなあと話し合っていた数日後、 仲立ちして下さっている方より連絡があり、利恵さんと御両親が年明けの20年1月6日に、我家に来て下さる事になり大喜びをしていたら、風邪をこじらせ肺炎になるとのことで年末から西京都病院に入院、お正月明けの4日に退院、山崎家をお迎え出来るようになり安堵したことでした。
6日の午前に来て下さり昼食をともにし、御両親とも親しく話し合い利恵さんとの結婚も許して頂き、本当に夢心地で嬉しくなり利恵さんと正隆をせかすように、結婚披露宴をするホテル探しに京都駅周辺に出かけた、両親も帰られ家内は「式場は一行寺様・会場には京都グランブィアホテルがいいなあ」と家内が言っていた。夕方一行寺の宮子坊守様から電話があり「このたびはおめでとうございます」と言われて何のことかと思っていたら、正隆と利恵さんとが来られて結婚式の会場を4月5日にお願いできますかと言われ、また披露宴会場は京都グランブィアホテルに決まりましたとの事、思わず悲鳴を発しました。正隆が帰宅後、話を聞くとホテルはその日だけ空いているのですぐ予約をし、一行寺さんとこへお願いに行ったとのことでまたびっくりした。

結婚式が3ヶ月後の4月5日に本決まりになり、気忙しい中で一つずつ片づけていかなければならない、まず結納は2月24日に決まる。結納の品は我家の出入り先の呉服屋さんに訪問着、喪服一式揃えるために利恵さんとお母さんに来て頂き選んでもらい仕立ててもらうことなり、引き出物は清水焼の窯元で誂えてもらう品を選び決める、お菓子は京都の末富さんに頼むことにし、婚約指輪は京都大丸の外商に家内がだいたいのことを頼み二人が大丸へ行き決める。また二人は結婚式に着るドレスや着物を試着した時の写真を家内に数点見せた中で、これが似合うと言った物を選んだと言ったので喜んでいた。新居には我家より数分の場所で日当たりのよい所を探して契約を済ませ、利恵さんは2月末から少しずつ高槻から両親とで荷物を運んでいる。
此の頃より容子の右足親指が化膿しだし、訪問看護師さんに診てもらっていたが3月6日に家で治療するより病院でする方が良いと勧められ、西京都病院に入院する事になる。家族も納得してのことだった。私が最後に見舞いに行ったのは17日で、正隆と利恵さんは16日頃一緒に見舞ってくれている。3月20日に新居に合う家電や家具を買いに行くと言っていた、次女の寿代は18日、それぞれに結婚式の出席を楽しみにしていたという。ただ次女には私が死んだら西京都病院の福永先生には○○円・看護詰所には○○をと告げていた。
3月19日午後3時前(2時50分頃)に西京都病院より会社に電話があり、悲鳴とも思える声で「早く来てください」「すぐ来て下さい」といわれ30分程かかりますと言って電話を切って、正隆に様子がおかしいから言ってくるはと言って、病院に3時30分〜40分の間に着き病室に入ったら、福永先生と4人の看護師さんがベツド(容子の頭の方)の傍に立っておられ、容子にはのどからチューブが入れられていたとっさに死んでいると思った、枕もとにより手を取り「容子」と声をかけた、温かく奇麗な顔で眠っているようだった。しばらくして病室の様子を見回った、ベツトの横に便器(小)が一つだけ置いてあった、壁に朝・昼・夕食の食べた量を記す表が張ってあり、朝食は取っていたが昼は書いてなかった今迄何度も来て観ているが昼食は記されていなかった日が多かったので看護師さんに聞くと少し食べておられましたとのことで、朝もお話ししてお食べになりました。
容子の生活用品等が何もないのでおかしいなあ思っていたら隣の部屋に置いてあった。その間先生や看護師さんはマッサージをしておられ手を止められると心電図が静止していた、それを何回もされていた、しばらくして福永先生に携帯電話が有り「いまでられません」しばらくしてまた先生に電話があり、同じことを言っておられた 私は以前テレビで管を抜くのは先生が出来ないことを思い出し、息子に電話しますと言って公衆電話の有るところ聞き 息子には亡くなったといえばびっくりするので危篤だから寿代に連絡して仕事場を戸締りしてタクシーで来るように伝えて病室に戻り先生に管を外して下さいといいました 先生や看護師さんはなれたもので瞬く間に後片付けが終わりました。
5時頃義妹(令子)が来てくれ、息子も駆けつけまた大津から次女が千晴を連れて来てくれた、千晴は11か月になったが赤子のときから顔見知りがひどく私たちと目が合うだけで大きな声で泣きわめいていたが、母親が先に大きな声で泣きだしたので何か異常とわかったのか神妙な顔をしていた。少し落ち着いたころから容子の後かたづけを済ませて、容子と共に自宅へ6時半頃帰った。その日は友引で公益社も休みで打ち合わせが明日の朝にしかできない、まず、手次の長覚寺さんへ連絡して来てもらい、お通夜と告別式はお願いしたが時間等は明日に連絡することになった。親戚には亡くなったことを報告詳細は明日、一番肝心な山崎家に連絡すると。明日朝利恵さんと御両親とで来て下さることになり、結婚のことをまず話し合わなければ、葬儀をどのように勤めるか決められない。その夜鈴木一弘さん寿代に千晴は今迄と違って明日から変わるよと言ったらほんとかなあと言っていた。
20日9時ごろ山崎さん・公益社の担当者が来られる、公益社の方には山崎家との話し合いがあるので外で待っていただくことにした。 私からこのような不幸があり山崎さんや親族の方で結婚式をするのか延期か延期の場合、ホテル・式場がいつ取れるか、結婚式を4月にさせてもらえば密葬(誰にも知らせず身内だけ)でもかまいませんとお話させていただきました、すると山崎のお父さんが米澤家に嫁ぐのだから結婚はこのままで良いし、葬儀も米澤さんのやり方でと言って下さった。(今日は新居で使う家電等を買いに行く日だった)
もうひとつ住まいの事で.同居して頂けるのか別居かもお訊ねしたら同居していただけるようになり、利恵さんと山崎家のことは済み、公益社に入ってもらい打ち合わせた結果、今日20日7時よりお通夜 21日2時より告別式を長覚寺様でと決まる。11時頃から親戚や関係者に連絡しだすが祭日で連絡取れない為、正隆に会社へ行ってもらいFA]をしてもらう。私は住職に容子の院号・法名をお願いする ただし女性の場合妙がつくが事が多いが付けないでほしいとたのんだ、業者とは細かいことまで相談しながら@生花のみ受け付ける A受付のお願い(組合の木工部・友人)B立礼のお願い C焼香の順番 D山に行っていただける人 寺に残ってもらう人 E容子の写真 F祖供養の数 Gお寺の近くへ挨拶 H容子をお寺に行く前に会社に寄って行くこれくらい相談して通夜・告別式を迎えた。お陰様で400人を超えるお参り頂き有難いことでした。
休む間もなく22日より利恵さんの受け入れのために、正隆の部屋や他の部屋の整理やお香典整理 23日は新潟へ長女が帰るので昼に一逮夜をすませ娘は帰った。一弘・寿代に千晴は「変わりましたか」と尋ねると、「変わった」言って不思議がっていた。昼から結婚のお祝いに来て頂いたお返し等多忙だった。工務店に頼んで4月4日までに壁の張り替え台所・風呂場の清掃を頼むこの間の1週間ほどは3時間ほどの睡眠だった。正隆と利恵さんはマンションの解約や持ち込んだ荷物の引き取りや寝具等の買い物で多忙、4月4日私の65歳の誕生日になんとか新婚夫婦を迎え入れる体制が整った。結婚式の当日は快晴にめぐまれ、一行寺御院では厳粛な中で挙行され、披露宴も和やかに終えることができました。
次は容子(純心院釈尼容光)の忌明け法要の準備、法事は5月3日自宅で本当の身内で勤めさせていただくことにした(案内状も出さず兄弟だけに電話する)。お通夜・告別式に頂いたお香典返しの為の品選び、氏名・住所の確認を次女にも手伝ってもらう、容子の死をご存じで無い方で年賀状を頂いていた方へ「忌明けのお知らせ」の用意、また新婚夫婦は新婚旅行も行ってないので忌明け後にするために調べ、5月13〜16日の3泊4日で屋久島方面に行くことに決める。
4月13日 郁文中学校の同窓会が京都センチュリーホテルで行われた。家内が亡くなったので欠席する旨電話をしておいたら、幹事さんからどうしても参加してほしいと言われ参加した、5年振りの会でまた何十年振りに会う友、同じ様な環境の友が参加していてよかった。5月3日忌明け法要の後会席で、妹(令子)が共同で福祉処『さくら』を運営しているので、容子のリフト付き愛車を無償で寄付することを発表、ただし車に「容子号と付けてもらう事を条件にしたら令子ちゃん初め、皆に喜んでもらえた。以前から車に乗れなくなったら「さくら」に寄付をと2人で話し合っていたが、令子ちゃんには「ただはだめよ」と言っておいていた。
法要後、容子の死をご存じで無い方にお知らせの案内を郵送する。
1) 5月に御葉書を頂きまして、有難うどざいました。突然の悲報に接し、驚きと悲しみで胸が、いっぱいになりました。奥様には、入院中に沢山の励ましと、癒しと、たくましく生きる力をいただき、ただ感謝の気持ちでいっぱいです。病院のベッドで、ご家族に囲まれ、にこやかにされていたお顔が、今でも目に浮かびます。そのお姿が、車椅子の妻として、母として始まる生活の良きお手本を見せていただいている様で、とても安心しました。
1) 拝啓、本日は、奥様ご逝去の報に大変驚いております。何も知らぬ事とは言え、失礼いたしました。 謹んでお悔やみ申し上げます。
奥様は、若くして患われ、ご不自由なお体でお子様方を立派に育て上げられました。さぞ大変だったと存じます、母が同じ病気だったのでよく分かります。でも貴方さまの支えも大きかった事でしょう。本当にいいご夫婦であったことと拝察いたします又この度は、ご長男様もご結婚なさった由、奥様も安心なさったことでしょう。お悔やみと一緒で失礼ですが、お慶び申し上げます。どうか、奥様の分までお元気で、お元気でお過し下さいますようお祈り申し上げます。合掌 (富田林市 伊藤慶子 様)
1) 容子様の訃報をいただき、胸を打たれました。桂川園・デイサービス・ショウトスティでご一緒になり、立派なお人に感銘しておりました。非常に残念ですが、いつも心に浮かべて、私も頑張りたいと存じます。
ご冥福をお祈り申し上げております。合掌 (右京区 田中久栄 様)

1)お便りありがとうございました。御子息の新しい人生のために、容子様は御自分のお仕事を最後までやりとげられたとのこと、容子さんらしいと思いました。そして「人生の半分を病と共に生きながら」自分の足でしっかりと立ち、家族の自立した一員として人生を楽しみ御自分の仕事をまっとうされたのは、容子さんのそのような生き方を可能にした御家族がおられたからですね、そういう意味で容子様も御家族の方も、充実した人生を送ってこられたのだと思います。そして私もそこから多くのことを汲みとらせていただきました。ありがとうございました。(長岡京市 都出)
1)前略、奥様の訃報お聞きしまさた。大変だった事でしょう。いつも感心、感動していました。長期間の献身的な介護。到底私には出来ぬ事です、文句なり不足一つ云わず、身の廻りの世話をし乍の仕事、 人間的に尊敬に値するのみです奥様も病弱の身で娘さん、息子さんの世話など大変だったと思いますが、貴兄の愛に甘えつつも喜んでというのもおかしいですが、仏様になられたと思います。これから淋しくなると思いますが、今後貴兄の生活には日々の行いの積み重ねで、善い事が巡ってくるでしょう、娘さん、孫達、又これから内孫の誕生とまだまだ大変でしょうが、楽しい日が待っていることでしょう。あとは御自身の健康に留意しつつ御精励ください。私もおかげで無事に元気にして居ます。右乱筆乍一筆啓上 早々 (大津市 山形治男 様)
1)山々の木々は日増しに色濃くなって参りました。御無沙汰ばかりしております、病院入院中は色々お世話になっておき乍申し訳ございません。容子様の悲報に何と申し上げて良いやら、涙が止まりません、長い間の闘病生活にもめげず、終始明るく生活しておられた様子に頭の下がる思いで一杯です。不自由な体にむちうちつつ、一生懸命生き抜いてこられた様子、病院での生活の中から充分うかがい知る事が出来ましたが、家庭での生活ぶりを頭にうかべ乍本当に何と申し上げて良いのか分かりません。私もどうにかリハビリセンターで手術して頂いた右足股関節はお陰様で、一寸のくるいもなくきれいに手術が出来ていて、地方のお医者様も、驚いておられる位ですが頸椎がずれて、両手がしびれる様な状態で手の指先が特にしびれ感覚がにぶく、やけどしたり物がつかめなかったり、字も ろくに書く事が出来ず、腰もまがり気味になり、歩行も少々困難で杖が・乳母車がなければ100mも歩く事ができませんが、容子様の事を思い出しては、喜ばなくてはといつも心に思っています。年齢も75歳、昔で云えばもう本当に良い年、こんなに長生きさせてもらってと 、何時もよろこんでおります。お陰様で主人も77歳ですが私よりは電機で、田や畠の事は一生県命出来るはんい内でやってくれております。
容子様も家族の皆様に支えられ、長男様の結婚の段取りなされたとの事、唯頭の下がる思いで一杯です。一緒に御生活なさっていられるとの事何よりです。御主人様の今日迄の生活振りを見ておられる家族の方の思いであると、お手本にして生活していきたいと思います。私方、娘夫婦、孫2人、6人家族、孫2人は結婚も決まり6月22日姉の結婚式、年の暮には弟(長男)の結婚式とですがそれが見られる方に感謝です。御主人様、今後体に充分お気をつけ頂いて容子様の分まで、長生きして孫さまのお出来になるのを楽しみにお過ごし下さいませ。寄せては頂けませんが、私地の空より皆様御家族様、お多幸をお祈り申し上げます。 合掌
乱筆乱文御許しください。 誠に失礼ですが、お線香一束ですお供え下さいませ。
どうかこんな事で失礼です、決してお返しとか心使い頂きませぬ様、もしお返し等お送り下さいましても、受け取らせて頂きません、送り返させて頂きますのでどうか悪しからず、こんな事で御許し下さい。
(志賀町 塩谷 テル子 様)
1) 拝啓 新緑が目にも鮮やかな候となりました。御尊家様方におかれましてはお変わりなくお過ごしのことと拝察しておりました。この度、ご令室様のご不幸のお知らせをたまわり、これまでのご様子は存じておりましたが、ご還暦の前におなくならになるのは誠にご残念でなりません。妹園子死去の際にはその追悼の文集に佐賀錦のことをお書きになっておられたのを思い出しあらためて読み返させていただきました。そのご文書を拝見し、大変細やかに人のこころを思いやる方との印象を受けました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。ご尊堂さまにもお力落しでしょうがなにとぞ御身お大事になされますようねんじております。 敬具
米澤正文様 (高槻市 三好 弘・一子様)
1) 拝啓 庭のつつじはさかりをすぎましたが新緑が美しく心をなごませてくれます。
昨年末に姉園子の三年記念式でお目にかかって以来ご無沙汰いたしておりました。ご無沙汰のあいだに米澤様には大変な時をお過ごしだったのですね。
容子様がご逝去され法要をすまされましたとのお知らせをお受けして大変おどろきました。容子様とは姉の分骨式でお宅にお伺いしました時が最後になりました。お悲しみの間にご長男が結婚され、容子様が万端ご準備をなさいましたとのこと、お心残りはございましょうが安心して旅立たれたことと存じます。これからはご長男ご夫妻と平穏にお過ごしいただきますようお祈り申し上げます。敬具 (山科区 三好 厚子様)
1)前略 お手紙戴き、悲報とお祝いと、米澤様の複雑なる心境お察し申し上げます。与えていただいた人生ですそれぞれの姿は異なろうと有り難く頂戴し毎日を大切にお送りいただく事を願っております。今はご往生された奥様を偲びつつ、ご子息さま共々、伝統技術の益々の発展と末永い保存を願っております。呉々も御身大切に毎日をお送り下さい。合掌
追伸 地元の品ですお送りしました。ご笑味下さい。(松阪市 西方寺 大西光浄様)
1)前略 この度、突然容子さんの訃報をうかがって驚いております、お元気でお過ごしの事だとばかり思っておりましたので信じられない思いでおります。
長年のご家族様の手厚い介護をされておられましたのに、さぞお力落としの事とお察し申し上げます。かしこ (中京区 山田 泰子様)
1)紫陽花が雨の中で美しく咲いております。御令室のご冥福をお祈り申し上げます。
奥様は大変偉いお方でしたね。ご長男ご夫妻も同居され皆様ご一緒の生活うらやましく思います。「さくらんぼ」をお供えにお送りしています。遅くても七月三日には届くと思います。お供え下さい。皆様お身体を大切になさって下さい。お酒はたしなみ程度に。 かしこ (淀川区 西村 禎子様)
1)前略 大変ご無沙汰致しております。20数年前の伝統産業青年会の皆様方の事を懐かしく思っています。この度の奥様の悲報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。さぞお力落としのことと存じますが、お疲れが出ません様どうぞお体を大切になさって下さいませ。 かしこ (左京区 山口 圭子様)
1)平素はご無沙汰ばかりで、失礼を重ねて居ります。今朝方、米澤さんからのお便りが届いて驚いて居ります。そして僕はとても淋しい気持ちでこれを書いています。いちも、ほがらかでやさしくして戴いて居りました。また改めて、寄らせていただきたいと思っています。心よりお悔やみ申し上げます。米澤さん、どうかご自愛下さいますように。取り急ぎペンを取りました、ご容赦下さい。お電話で、と思いましたが、つらかったのです。 合掌 (西京区 松浦 忠平様)
1)聖号 南無阿弥陀仏、このたびは哀しくも辛い訃報に接しました。容子様にご厚諠を賜りましたご生前のお姿を偲びつつ、御回向させていただきました。愛する者も別れねばならない、はかなき世の定め、お寂しい日々とは存じますがおいといください。合掌 (下京区 西方寺 大橋 紀雄様)

1)米澤様 春の嵐の日に、突然の訃報を聞き驚きました。週に数回数時間だけ関わっていた私達ですら大きな衝撃を受けたのですから、ご家族様のお気持ちを察す ると、とても心が痛みます。徐々に病状が進行し、とても辛く苦しいのにぐっと絶えておられた姿を思い出すと、いたたまれない気持ちでいっぱいです。しかし、そのお姿には私達はとても勇気づけられてきました。数年前・・・いつのことだったか、ご本人様から「もし私が死ぬことがあったら、きっと窒息・・・」と。まさかそれが本当のことになってしまうとは・・・。今はただただ安らかにご冥福を祈るのみです。ご連絡が遅くなって大変恐縮ですが、2月と3月分のご利用分がございます。ご都合のよい時にできればお伺いして焼香させていただきたいと思っています。よろしくお願いいたします。 (訪問看護ステーション 秋桜 山崎 真奈美様)
多くの方よりお悔やみや、励ましのお便りや電話を頂き有難うございました。
法事も済み落ち着いたはずだがここ1カ月ほど、疲労か食欲もなく頭がさえて睡眠できない、このまま眠ると朝起きているのかと不安になる。5月12日中国の四川省で大地震が発生し毎日被害の報道がされている、ベッドで寝ながら見ていて亡くなられた人をかわいそうと思っていたが、現地の状況が少しずつ報じられ生き残られた人がこれからどのようにして生きていくのかと思うと、私は何と幸せなことだろうと思い知らされた。今出来ることに前を向いて生きていこうと思わして頂いた。しばらくして気分は楽になったが体の疲労は取れないので、朝食後にビタミン剤(無臭ニンニク粒・コエンザイムQ10)を多めに飲み会社で10時ころ小便をしたら便器が真赤でびっくりした、すぐにインターネットで血尿を検索した中で原因の1つにビタミンの過剰摂取があった、また慌てなくてもよいとも記されていた、この日数回真赤だった。
夕方医者に行こうかと思ったが、身体はどこも痛くないし恥ずかしいこともあり様子を見ることにした。2日目も赤いが少しずつ黒味が増していった、3日目は徐々に薄くなっていき最後は血痕が出て普通に戻った。丁度血圧の薬が切れるので北村医院にいって話をすると叱られたが尿の検査は陽性とのこと、2種類のビタミン剤を見せてこれが原因かと尋ねたが解らないが飲まないようにしようとなり今でも家に残してある。
6月19日の月参りに長覚寺の住職に納骨の日時を8月9日にお願いした。内容は忌明けを縁のある方に案内が出来なかったので、一般的では無いが納骨の法事を有縁の方招いて行いたいと相談したところ良いとの事で、午前10時半に東大谷の墓地に納骨・粗廟に分骨・午後12時に長覚寺にて納骨の法要・1時半より緑風荘にて会食と決まる。
早速案内状の作成・祖供養の手配(錦市場に足を運び塩昆布に決める)・緑風荘との打ち合わせ・令子ちゃんには車を寄贈していたので、法要の時皆さんに披露したいので看板をそれまでに仕上げるよう頼む。返信の整理や出席者の名簿の作成等しているころ、今まで利用価値がなかった携帯電話を、若夫婦が別々だった機種を共通の機種に変更するというので家族無料の機種を購入、初めて携帯電話を手にした。
寝室を整理(いらない物衣服・薬・ベッド・家具等)していてトイレ・シャワー室が広くてもったいないので、シャワー室にトイレを付け、空いた所を桐の部屋に改造したら着物もそのまま吊るして置けるようになり便利になった。8月9日快晴の中納骨・法要も済み、和やかに会食も終えられた(納骨の儀19名・納骨法要55名・会食48名)
家内が短歌をNHKの通信教育でしているのは知っていた短歌と日記のノートが2冊テーブルの上に置いたままだったので、パソコンに打ち込みホームページに追加しようと取組み9月頃完成した。写真も整理していたが結婚15周年記念で行ったハワイ旅行のアルバムが見当たらないので家中探ししていたら、新潟の孫のビデオテープが沢山並べてあった奥に5冊の単行本大の日記を見つけたがアルバムは見つからず。
短歌と日記をワープロに打ちおえたのに又、最初から始めようと10月から始めた。一文字打っているうちに、容子の生きてきた証、伝えたいもの、生きていく大切さ、今生きている私に生きる命を与えてくれていると、知らされ朝から晩まで、休みもなく打ち続けた。丁度、仕事もないので息子に1階の組み立て兼倉庫や4階の部屋屋上の物入れを当初の様にしようと、解体し、いる物と要らない物を選別しトラック数台分を処分11月中旬に終わった、私も、息子もきれいになったが今後どのように展開するのか創造もつかなかった。
12月初めより、幼・小・中一緒だった彫刻家の小川貴史君が、3階の私の事務所で21年4月に京都府文化博物館で「木の足跡」のテーマーで個展を開くため、作品創りに洛西からタクシーで通いだした(往復¥4500位)、4点の作品を完成さすのに年明けの2月末までかかった。その間私は、小川君の相談にのりながらパソコンに向かっていた。
年の瀬も押し詰まったころ、容子の歌を長女の書家、富所白象に書いてもらいささやかなギャラリーを思いついた。年が明け「さくら90」(旧城陽ライオンズクラブメンバー)の新年会で、平成10年に新築した時の工務店に話をすると、賛成とのことで2月末に簡単な図面ができ依頼する。一周忌に容子の歌・日記等をまとめホームページに発表したかったが、娘達の反対で断念、工事も何も進んでない、ここで決断した。 一周忌は身内だけで勤める、三回忌は悔いの無い法事を務めたいそうきめた。人の言うことも大事だが私が生きていくこと家業の技術を継承していくことがもっと大切だ、変わろう、会社の名称も変えよう、父親の法名が覚正でホームページのタイトルが覚正庵なのでちゅうちょすることなく、社名を「覚正庵」に名義変更を四月初旬に完了(子供三人には相談・賛成)百年以上続いた米澤神仏具を閉じ、新たな技術継承のために出発だ。六月頃から本格的に工事も始まり、娘をなだめ短歌・日記をホームページに掲載することになった。
お陰様で、9月19日(土)ギャラリーオープン 主会場の入口には容子の経歴パネル・日記等の展示、メーンには富所白象の書作(5点)・容子の歌(6点)、第2会場には小川貴史の「木の足跡」展、第3会場は米澤の歴史(図面・江戸時代の道具・宮殿・神輿・写真・正文のTV録画等)、最後のコーナーには次女が「日曜カフェイオリ」を開き心のこもったおもてなしを始めてくれています。12月から1坪ほどのスペースで私が仕事をするようになった。
21年12月31日書き終える
平成22年3月27日(土)純心院釈尼容光の3回忌法要を勤めたいと思っています。
さわやかな気持ちで勤めたいと思っています。
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